応神天皇の時代(281 年から 312 年の間天皇位<日本書紀>)になると、朝鮮半島から帰化人がどんどん入ってくる。どうして多くの帰化人が入ったのか。大陸では中国が皇帝制を広めて、自分の国を広げていた。国を推持するためには国を大きくして、その土地から利益をあげなければならない。朝鮮半島はその時どういう状態にあったかといいますと、高句麗、新羅、百済の三国に分かれていた。この三つの国は仲が悪くて、年中戦をしていたといっても良いぐらいで、しょっちゅう勢力争いをしていた。それに中国が勢力を拡大してきたから動乱につぐ動乱ですから、国を捨てて逃げ出す人も大勢になる。手に職を持っている人が、日本にゆけば好遇されることはもうその頃皆知っていたでしょうから、日本へ渡ってくる。
応神天皇の時代になると、同盟関係にあった百済から助けてくれと云ってきたので、日本軍が半島へ出兵します。この時から益々帰化人が多くなります。
百済王が真毛津という女の職人を応神天皇に贈ってきたのはその頃のことです。彼女は「縫衣工女」と云われているから、裁縫が大変上手な人であったでしょうし、多くの門人も一緒に渡って来ています。その他にも、色々な技術の専門家がやって来て、着物を縫ったり、錦を織ったり、養蚕をしたりと大活躍するわけです。
ものすごい錦や素晴しい縫製のきものをこしらえて天皇に貢納するから、天皇は大変驚かれて、この様に真面目で、こんな素晴しい物を作るのは珍しい、異国人ではあるけれど、日本に帰化して長く仕えて欲しい、と云って名前を与えたわけです。
このようにして、日本の織物は益々発展しまして、着物というもの、これは二部式でしたが、これもぐんぐん発達してゆきます。 時が経ちまして、聖徳太子の時代になると、中国からも技術を持った人達がやって来るし、朝鮮半島からの帰化人も多くなる。
この時代は、仏教がめざましく布教される時でもあり、大陸の文化摂取の時でもあります。
聖徳太子が亡くなられたのは621年。世を去られた時、昔偉い人はお妃をたくさん可愛がっていられたのですが、その中でも特に愛しんでおられた「橘大郎女」という方がいます。この女性が推古天皇にお願いして、「仏教を今日まで広めたのは聖徳太子のお蔭ですから、聖徳太子が極楽往生なされるように、曼陀羅をお作りしたい」というので作られたのが、今中宮寺に遺っている、国宝の「天寿国繍帳」です。
推古天皇は大郎女の願いを殊の他喜ばれて、太子に仕えていた女官たち、釆女たちに命じられて出来上ったわけです。