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  • 夏季休暇

    2018.07.25

    中沢和裁師範学舎は、下記の日程でお休み致します。

    8月11日(土)〜8月15日(水)

  • 夏季休暇のお知らせ

    2017.07.26

    中沢和裁師範学舎は、下記の日程でお休みいたします。

    8月10日(木)〜8月16日(水)

  • 夏季休暇のお知らせ

    2019.07.30

    中沢和裁師範学舎は、下記の日程でお休み致します。
    8月10日(土)〜8月18日(日)

  • 夏季休暇のお知らせ

    2020.07.27

    中沢和裁師範学舎は、下記の日程でお休み致します。

    8月8日(土曜日)〜8月16日(日曜日)

  • 夏季休校のお知らせ

    2022.07.15

    中沢和裁師範学舎は、下記の日程でお休みします。

     

       8月6日(土曜日)~8月21日(日曜日)

    この間のお問い合わせ等は、メール・FAX(0422-43-8609)で承ります。

     

  • 夏季休校のお知らせ

    2023.07.24

    中沢和裁師範学舎は、下記の日程でお休みします。

    8月11日(金曜日)~8月20日(日曜日)
    この間のお問い合わせ等は、メール・FAX(0422-43-8609)で承ります。

  • 夏季休校のお知らせ

    2024.07.16

    暑中お見舞い申し上げます。

    中沢和裁師範学舎は、下記の日程でお休みいたします。

      

    8月10日(土)~8月18日(日)

    この間のお問い合わせ等は、FAX・メールで承ります。

    FAX 0422-43-8609

    E-mail  info@wasai-kinuta.com 

  • 夏季休業のお知らせ

    2025.07.9

    本年は、下記の日程で休業いたします。

        8月9日(土)~8月17日(日)

    この間のお問い合わせ等は、メール(info@wasai-kinuta.com)・FAX(0422-43-8609)で承ります

  • 大正、戦争前のこと

    2017.03.6

    その頃は女店員も男の店員も全部きものです。男のきもの姿で一番スタイルの良かったのは、株屋の番頭。その次は三越の店員で、第三番目は横浜の商館番頭の和服スタイルです。商館番頭というのは、外人客相手に日本の名品を売る商店の番頭さん。お召しの着流しで、結城の二枚着ぐらい着て、お召しに縫紋がのぞきになって、綴の帯を締めて、それはまあ素晴しかった。
    今の東急、昔の白木屋から電車通り越した向側の千代田橋から開運僑寄った方面は全部株屋でした。株屋さんのごく良い番頭になると、一つ胴裏で通し裏になっている。裾回しだけ焦茶で雲形に染めてあって、胴裏は真白なのです。随分ぜいたくなものを着ていました。それと男物でも付比翼。あの時分はシャツの良いのが無かったから、胴着を着たり、長襦袢を着たりした。その衿が二重衿なんですね。片一方が黒の琥珀とか八丈になっていて、片方が更紗羽二重なんかになっている。両方使えるという二重衿を男がやっていた。
    大正時代は職人の腕の良いのがまだ沢山のこってました。紺屋にしてもその通り、刺繍屋にしてもその通り。三越は職人の中の職人という様な素晴しい腕でなければ務まらない。職方になれなかったのです。今の八重洲口通りが昔は北槇町で、そこには一流の職人たちが集っていた。「京忠」と云って江戸褄専門の染物屋がありました。「伊勢仁」と云って印物を専門に染める染物屋がありました。それから「鳥光」と云って刺繍のものすごい左甚五郎腕の刺繍屋もいた。これは皆三越出入りの職人なのです。こうした職人をかかえて三越は最高のものを作っていたわけなのです。 当時丸帯に20円の正札をつけておいて、2ヶ月も3ヶ月も売れないから、0をひとつ付け加えて200円に直したら、その日の内に売れたという語がある。これは実際本当か嘘かわかりませんが、その位ぜいたくな物が三越では売れたということなのです。 関東大震災(大正12 年)の時、私は21 で丁雅奉公を卒業したのですが、それから10 年位は職人をしなければ和裁の道の達人にはなれない。
    京都、大阪、神戸と仕事がみんな違う。それであちらに一年、こちらに2年と旅から旅の、食ったり食わなかったりして、人の仕事を盗んで東京へ帰ってくる。漸く世帯を持って和裁屋を始められたわけです。
    その当時のきものは、今の人には想像もつかないと思います。お花見の時だけ素袷といって今の現在のきものです。後は桜の花が咲く時でもきものは全部2枚着に決っていた。男物の下着は通しだけれど、女物は胴抜きの下着と云ってとても凝った物で揃えたのです。ですから同じきものでも、今はせいぜい着たところで、きものと長襦袢と帯でしょう。昔は2枚着です。それにパンツをはかず皆お腰です。湯もじと腰巻きと。
    昭和 7 年 12 月の白木屋百貨店の大火で、女店員に大勢の犠牲車が出ました。女店員は和服で前が拡がってしまう。救命の綱を持っていた手で隠すから支え切れなくて、頭が重いから逆さになってサーツと下に落ちて、皆ザクロみたいになってしまったのです。この時からズロースとかパンツをはくようになったと云われます。
    レースの袖といいますのも、昔の袖で、電車などの吊革につかまると、脇の毛が見えるからそれを隠すために出来たのだと云われています。

  • 奈良時代のこと

    2017.03.6

    聖徳太子が亡くなられてから90年経った710年になると、都は平城に移されます。いわゆる奈良時代と我々が呼ぶ時代です。 奈良には大仏様が居られます。この大仏様は743年聖武天皇がお命じになって作られたもので、それから10年経った752年に開眼供養が営なまれます。
    この大仏様は五丈五尺五寸という大きいもので、台座までの寸法は17メートルといわれます。
    こんな大きな仏様と、それの入るお寺ですから、その工事は大変です。この前の戦争の時のように、全国から男性を召集して奈良へ呼び寄せたのです。日本国中から集められた人間が8千人といわれています。その8千人の3分の1は労働者、中級の人間が 3 分の 1、あとは全部官吏だそうです。この 8 千人もの人が全部、国の食糧を食べ、国から支給されるきものを着て暮したわけです、それも10年間も。
    そうしますと、私が考えるに、8 千人の人間がいると、単衣と袷と、寒くなると綿入れ、当時の綿入れというのは真綿しかありません。木綿綿は徳川時代の中期以後じゃないと出来ない。昔の庶民、身分の低い者の綿入れは、楮の木を石でたたいてなめした物を、紙と紙の間にはさんで、麻の袷のきものの中へこれを入れて、綿入れと称したものだそうです。
    年に3回きものを召集した人たちに支給しなければならない。それだと2万4千着のきものをどうして縫ったかということになる。
    今のきものと違って、直線裁ちではありません。中級の人は大袖といって、袖山から口まで元禄袖の様になったきものを着る。それから一番身分の低い者、労働者はモッコかついだり、石をかついだり、鉄をかついだりするから衣類の痛みが早い。だから10 年問同じきものであったとは考えられない。現に正倉院には待遇改善を願った書類が残されていて、「支給されたきものは洗ってあるといわれるが、汗臭くてとても我慢できない」などという言葉があるそうです。
    2 万4 千枚のきものを縫い上げるのにどの位の人と時間がかかったか。腕は勿論良い人が集って縫ったに違いない、帰化人やそれを習った人達でしょうね。1日10時間働いて一枚縫えたとします。これは身分の低い人の易しいもの、身分の高い人のむつかしいものを考えて平均したらの話ですが。30人の縫手がかかって月に900枚、27ヶ月、2年と3ヶ月かかる。休みはありません。 ところで、これは私の推量にしか過ぎません。衣服史、服飾史をいろいろ読んでは見ましたが、染色のこと、織物のことは良く出て来る。けれど、その当時縫い方はどうであったのか、ちっとも出てこない。染め、織りだけではきものではありません。
    裁縫の技術史というものが抜けているわけです。実際に縫っている私達が研究して、発表する以外にない。ま、それはそれとしまして。

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