去年の大掃除の時に、長さが半端な残り生地が沢山出てきました。
その中に、ウール地で羽織の袖分(5尺位)一組がありました。
それを使って3歳の子供用ちゃんちゃんこに仕立てて甥に着てもらいました。
このように、半端に残った生地でも、工夫をすれば何かしら着物地を生かした
次の品物を仕立てる事が出来ます。
これは、着物の魅力の一つだと思います。
着物は色々と形態を変えて新しく生まれ変わらせる事ができます。
例えば、袖の柄にもよりますが、振袖は袖丈を短くして訪問着として仕立て直す事ができます。
そうすると、結婚式,入卒式などでも着られます。
他にも、着物から羽織・コートに変化させられます。
出来合いの着物の身丈,身幅,裄を自分の寸法に合わせてお直ししたり、
仕立て替え等すれば無駄なく着られる事が魅力的だと思います。
先日、東京の天気予報が「雪」の日に着物で出かける予定でしたが、残念ながら諦めました。
寒さは羽織やコートで対応できるのですが、足元が不安でした。小雨用の下駄の用意はあるものの、夕方の帰り道の凍結が心配で、結局スーツに長靴姿で出かけました。
そこで思ったのは、職人さんたちが履く地下足袋(じかたび)を、雨や雪用に改良してもらえたらうれしいな、という事でした。ネットで検索してみると、久留米絣柄や家紋や亀甲柄に手を加えた綿素材の地下足袋はありました。これらを更に防水や防寒加工を施し、雨や雪に対応できるようにしたらどうでしょう?足袋姿のままで履けて、和装にも馴染むように小紋柄やかわいい花柄を印刷した地下足袋なんて、おもしろくないですか?脱いだ後は小さく折りたたみ、バッグのに仕舞えるものであれば重宝するでしょう。
お天気を気にしないおしゃれな履き物と、すてきな着物姿でお出かけしたいですね。
我が国には「神代」と云う時代があります。これは明治の教育がでっち上げた一つの物語であるという学者もいますし、「古事記」も信憑性を疑われています。けれど、きものを研究する上では「神代」の物語というものはどうしても必要なものでございます。 御存知の通り神様はたくさんあります。その中で、日本の国造りをなさった神が、イザナギ、イザナミの御夫婦の神様です。国造りを終え、多くの神々を生むのですが、ヒノヤギハヤオの神を生んだ時、イザナミの神は病気になって死んでしまう。このヒノヤギハヤオの神は「火」の神だったので「みほと」が焼けてしまったわけです。
イザナミの命が死んでしまっても忘れられないイザナギは、イザナミに会おうと黄泉の国へ追っかけてゆきました。イザナミは「もっと早く来てくだされば良かったのに、もう亡者の食物を食べてしまったから黄泉の国の人間になってしまいました。けれど還ろうと思いますから、覗いてはいけませんよ」と云って部屋の中へ入ってしまう。それにも関わらず恐いものは見たいから、旦那様が一寸覗いてみると、イザナミの休には蛆虫がわいてすでに亡者になっている。「これはいかん」と云ったかどうか、大急ぎで逃げ還ろうとしているところへイザナミが出て来て、「私に辱をかかせて」と、黄泉の国の悪霊や鬼を使ってイザナギを追っかけさせたんですね。
どんどん逃げて逃げて、黄泉の国境に来た。けれどまだ追っかけて来る。丁度そこになっていた桃の実を三つなげつけたら、鬼たちは皆退散したという、これは神代の物語なんですよね。
今の世の中には一寸通じないけれども、この後のお話に、きものと関係する事柄が現われて来る。
黄泉の国へ行って身がけがれたイザナギは、竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原でみそぎをします。その時に、杖や帯、冠、褌、着物などを海に投げ捨てます。
神代の時代既にきものがあったということ、針も使っていたということが察せられる。といいましても、この「古事記」が成立したのは712年、神代の時代からはかなりの時が経ってはいますが。
話は変りまして、皆さん御存知の耶馬台国のことになります。この当時のことと云いますと、2、3世紀の頃になりますが、記録は日本書紀や古事記ではなく、中国の正史の、倭伝に残っているわけです。その中でも一番古い記録と云われているのが「魏志倭人伝」。その中に、「其の風俗淫ならず。男子は皆露かいし、木緜を以って頭に招け、其の衣は横幅、およそ結束して相連ね、ほぼ縫うこと無し。婦人は被髪屈かいし、衣を作ること單被の如く、其の中央を穿ち、頭を貫きて之を衣る(其風俗不淫、男子皆露かい、以木緜招頭、其衣横幅、但結束相連、略無縫、婦人被髪屈かい、作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之。)」とあって、裁縫を施さない粗末なものを着ている。男は体に巻きつける袈裟状のもの、女子は中央に穴をあけた貫頭衣を着ていたという記録が残っているわけです。
ところで、景初3年(中国明帝の年号で、239年)に女王卑弥呼が明帝に使いを出して、男4人と女6人の奴隷を献じ、一緒に斑布二匹二丈も贈り物しています。その翌年にお返しとして中国の皇帝はたくさんの織物や宝物と一緒に、金の印綬を女王に贈り、倭王を名乗ることを許しています。
さてこの印綬はその後 1500 年以上たった、徳川時代の中期ですか、お百姓さんが、自分の田の水はけが悪いために、その溝を直しておった。二、三枚の石をどかすと、不思議にもそこに純金の印綬が出たんですね。それが天明4年(1784)のことですから、随分長い間地の中に埋っていたわけです。
卑弥呼はその後、正始 4 年(243)にも、「生口(どれい)・倭錦(にしき)・絳青ケン(赤や青の絹)・緜衣・帛布」などを中国の皇帝に献上しています。ということは、その時代にも立派な織物が日本で作られていたことになる。どんな織物かは想像するだけで、はっきりしたことは解りませんが、中国の正史の魏志倭人伝に記録されているから作られていたことはまず間違いない。 中国の正史「魏志倭人伝」には240年前後の事が記されているのですが、それ以前にも日本は中国からの文物を取り入れています。朝鮮半島と日本の間にある、済州島には朝鮮半島から大陸の文物が入っていた。日本の文化はずっと遅れていますから、そこへ行って物々交換をして、珍しい物を日本へもってくるということが行われていたわけです。
紗の縫い目落としの羽織
巻縫いという技法で縫い代をできるだけ落として仕立ててあります。
裾の縫い代は模様になっています。
縫うには高い技術と生地の質が良いことも必要です。
昭和50年前後に流行したそうです。
紗袷とは紗、または絽の生地に柄を描き、その上に紗の生地を重ねて仕立てたもので、袷から単衣に衣更えをする前の間にだけ着用される、とても贅沢な着物です。
下の生地の柄が表から透けて見え、歩くたびに2枚の布が触れ合い表情が変わり、とても涼やかな印象です。
こちらは紗袷の羽織です。
昨今の社会情勢を踏まえ、中沢和裁師範学舎は下記の予定でお休みします。
4月11日(土)~5月6日(水)
この間のお問い合わせ等は、メール・FAXにて承ります。
コロナ禍に関する政府からの「緊急事態」延長により、中沢和裁師範学舎は5月31日までお休みを延長します。
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新型コロナウイルス感染症拡大に伴う緊急事態宣言解除を受け、中沢和裁師範学舎は
6月1日から再開します。
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