紋がついている着物を仕立てる時、正確に形を合わせるために、紋の形を調べる時があります。
家紋の種類は現在では2万5千以上あると言われているので、名前を調べるだけでも一苦労です。(まず、名前がわからないことが多いです。)
パッと見ると同じように見えても、ちょっとした部分が違う紋が結構あります。名前も独特ですし、デザイン的にも、とても優れていると思います。
家紋を調べてみると、ご自分のルーツが分かるかもしれません。
小学6年生になる娘の保護者懇談会で、早くも卒業式の服装についてお話がありました。
娘が通う小学校でも、袴の着用が増えています。和裁に携わり、着物を愛する身としては嬉しいのですが、問題も多いようです。
レンタルの間口は広がっており、選択肢は増えたと感じますが、その一方で着付けの問題は解決していません。
限られたエリアの美容院は早朝から予約が埋まって、中にはようやくとれた予約が朝5時台などという話も聞きます。それでは大変と家で着られるワンタッチ袴をレンタルしたものの、説明ほど簡単ではなかったり、綺麗に着付けが仕上がらないことも。
大変な思いをしたのに、そのせいで気分が悪くなったり、慣れない袴で着崩れてしまったりと、せっかくの式典が残念な思い出になってしまうこともあります。
学校によっては着物・袴着用を禁止する動きもありますが、それはそれで寂しいです。そうならないようにできることがないか、「着付けちょこっとお直しお助け隊」など申し出てみようかと考えています。
きものと密接な関係のある帯について話してみたいと思います。
帯の元祖だと云われているのは倭文機帯です。巾が一寸前後、長さが6~7尺ほどで、これを回して結んでいたわけです。
奈良時代になると、腰帯が使用される。これは男子用ですね。聖徳太子の御画像にある帯。革製で金銀や石の飾りをつけてあったようです。これは正装の時の帯で、略装、平常の場合は織物の帯を用いていたようです。正倉院に遺っている黒、紫、青、紅、黄などの「かんはた」がこれだろうと云われている。
豊臣秀吉が朝鮮出兵のため肥前名護屋に出陣していた頃、朝鮮の捕虜の中に組紐の職人が混じっていて、組紐を献上した。これが名護屋帯と云われて大流行するわけです。細紐ですね、帯というより。
帯が発達するのは江戸も寛永、延宝の頃からです。きものも、徳川時代初期までは、袂の八ツが明いておりません。女のきものでも男のどてらと同様に袖がついている。帯の発達で帯巾が広くなると、袖がつれる。つれますから八ツをほどいて振りがつき、身八ツが明くようになったわけです。
広巾帯が流行するのは、歌舞伎役者の舞台姿からだと云われています。上村吉弥や水木辰之助が広巾の帯を舞台で締めて流行らせたのがその元。吉弥結び、水木結び、色々の名前の帯が出来るのです。
現在でも結ばれているお太鼓結びは、文化 10 年(1813)に、江戸の亀戸天神の太鼓橋が再建された時、芸者さんが結んだ帯の型を受継いでいるのです。
大正時代の帯は丸帯と腹合帯しかありません。腹合帯は昼夜帯、鯨帯ともいわれた帯。関東大震災後になると、名古屋帯が出回って来る。名古屋の学校の先生が自分用に作ったのを、商売人が目をつけて売り出したと云われています。これはあまり上等な人は締めなかった。一杯飲屋のおねえさんか、すき焼きの店のおねえさんが締める帯が名古屋帯。今だと名古屋帯という側は売ってます、共で太鼓まで三尺位の返しになってね。出て来た当時は名古屋帯という側はない。片側だけしか売ってませんから、名古屋を作る時は別布を三尺買って貰うのです、お客様に。そうしてお太鼓の裏側に、それを腹合せの部分だけ別布を使う。それで半巾の頭から二尺五寸を中心にして左右に五寸を明けてポケットを付けたのです。かくしを。ということは、今はお金の価値が落ちて 1万円札が氾濫していますが、昔はギザ1枚50銭のチップ貰ったら大変なものでした。それをおねえさんたちはちょいちょい貰うため、がま口をいちいち開けて入れられません。そのため昔は名古屋帯には必ずポケットがついていました。
今度の戦争でくるりと変ると、名古屋帯そのものが新規に生まれる時代になって来たのです。名古屋帯の始まりというのは、簡略化を狙った、ついでに作った帯なのです。それが今日これだけ発達して来た。
今もごく大きな婚礼になりますと、丸帯というものを使います。昔は嫁入りの支度には必ず丸帯を使ったものです。今は袋帯ですね。袋帯というのはズック(消防に使うホース)の様に全部通しに織ったものです。両端ミシン掛けたのは袋じゃないけれど、両端ミシン掛けたら腹合帯なんだけれど袋帯といって、大手を振っている。本来なら袋帯じゃありません。
応神天皇の時代(281 年から 312 年の間天皇位<日本書紀>)になると、朝鮮半島から帰化人がどんどん入ってくる。どうして多くの帰化人が入ったのか。大陸では中国が皇帝制を広めて、自分の国を広げていた。国を推持するためには国を大きくして、その土地から利益をあげなければならない。朝鮮半島はその時どういう状態にあったかといいますと、高句麗、新羅、百済の三国に分かれていた。この三つの国は仲が悪くて、年中戦をしていたといっても良いぐらいで、しょっちゅう勢力争いをしていた。それに中国が勢力を拡大してきたから動乱につぐ動乱ですから、国を捨てて逃げ出す人も大勢になる。手に職を持っている人が、日本にゆけば好遇されることはもうその頃皆知っていたでしょうから、日本へ渡ってくる。
応神天皇の時代になると、同盟関係にあった百済から助けてくれと云ってきたので、日本軍が半島へ出兵します。この時から益々帰化人が多くなります。
百済王が真毛津という女の職人を応神天皇に贈ってきたのはその頃のことです。彼女は「縫衣工女」と云われているから、裁縫が大変上手な人であったでしょうし、多くの門人も一緒に渡って来ています。その他にも、色々な技術の専門家がやって来て、着物を縫ったり、錦を織ったり、養蚕をしたりと大活躍するわけです。
ものすごい錦や素晴しい縫製のきものをこしらえて天皇に貢納するから、天皇は大変驚かれて、この様に真面目で、こんな素晴しい物を作るのは珍しい、異国人ではあるけれど、日本に帰化して長く仕えて欲しい、と云って名前を与えたわけです。
このようにして、日本の織物は益々発展しまして、着物というもの、これは二部式でしたが、これもぐんぐん発達してゆきます。 時が経ちまして、聖徳太子の時代になると、中国からも技術を持った人達がやって来るし、朝鮮半島からの帰化人も多くなる。
この時代は、仏教がめざましく布教される時でもあり、大陸の文化摂取の時でもあります。
聖徳太子が亡くなられたのは621年。世を去られた時、昔偉い人はお妃をたくさん可愛がっていられたのですが、その中でも特に愛しんでおられた「橘大郎女」という方がいます。この女性が推古天皇にお願いして、「仏教を今日まで広めたのは聖徳太子のお蔭ですから、聖徳太子が極楽往生なされるように、曼陀羅をお作りしたい」というので作られたのが、今中宮寺に遺っている、国宝の「天寿国繍帳」です。
推古天皇は大郎女の願いを殊の他喜ばれて、太子に仕えていた女官たち、釆女たちに命じられて出来上ったわけです。
中沢和裁師範学舎は、下記の日程でお休みいたします。
12月27日(日曜日)~1月11日(月曜日)
中沢和裁師範学舎は、下記の日程でお休みいたします。
12月29日(水曜日)~1月5日(水曜日)
この間のお問い合わせ等は、メール・FAX(0422-43-8609)にて承ります。
たくさんの感動を残し、オリンピックが終わりました。
どの競技でも興味深いのは、演技中に上級者が決まって見せる、“同じ形”です。
リズム・姿勢・角度・間・音……。
これらは、確かな基礎を示す、実に奥深いことなのだろうと想像しています。
和裁においては、どうでしょうか?
まだ表面を真似ることすら難しいですが、いつか、この形が身についたら嬉しいと思っています。
先月の事になりますが、振袖の袖丈を直した着物で息子の卒園式に参列してきました。
柄は控えめだったのですが、振袖で着用する機会がなく眠っていた着物を再び着用できて嬉しく思いました。
同時に両親が成人を祝ってくれた思いと、時を経て息子の卒業を祝う思いが一枚の着物に重なる感慨深さがありました。
物が簡単に手に入る世の中ではありますが、これからも1枚の着物に思い出を重ねていけたらいいな、と思います。
なにかをはじめるのに、歳だからと諦めてしまう人がいる話を聞いたりします。
私には、10代の時に試みるも断念した和裁をいつかまたやりたいと、
秘めた想いがありました。
それを実現するために33年の時を経て、中沢和裁師範学舎に4月から通っています。
時を経ても変わらぬ運針やくけといった基礎の大事さはもちろん、
10代の頃の仲間や風景だったり、記憶が少しずつ蘇る不思議な感覚です。
確実に違うのは感覚の鈍さと覚えの悪さ、そして老眼です。
そんな現状を受け入れ出会えた人と居場所に感謝しながら、
焦らず丁寧に学んで行きたいと思います。
Y.T
中沢和裁師範学舎に通い始めて一年が過ぎました。
毎日朝の時間に練習する運針は
その日の気分、体調、天候に左右され機械のようには出来ません。
朝、家をバタバタと出て乗った電車が遅延したりすると
ヤキモキします。そんな心を落ち着かせる時間に
少しずつ出来るようになりました。
手縫いの温かみを大切にしながら
安定した針目を目指して頑張っていきたいと思います。
先日、先生に『写真に撮っておきなさい』と言ってもらえた
運針(糸こきと整った針目)は撮影して携帯の中にあり
迷った時に見返しています。