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着物の流れ

  • 大正、戦争前のこと

    2017.03.6

    その頃は女店員も男の店員も全部きものです。男のきもの姿で一番スタイルの良かったのは、株屋の番頭。その次は三越の店員で、第三番目は横浜の商館番頭の和服スタイルです。商館番頭というのは、外人客相手に日本の名品を売る商店の番頭さん。お召しの着流しで、結城の二枚着ぐらい着て、お召しに縫紋がのぞきになって、綴の帯を締めて、それはまあ素晴しかった。
    今の東急、昔の白木屋から電車通り越した向側の千代田橋から開運僑寄った方面は全部株屋でした。株屋さんのごく良い番頭になると、一つ胴裏で通し裏になっている。裾回しだけ焦茶で雲形に染めてあって、胴裏は真白なのです。随分ぜいたくなものを着ていました。それと男物でも付比翼。あの時分はシャツの良いのが無かったから、胴着を着たり、長襦袢を着たりした。その衿が二重衿なんですね。片一方が黒の琥珀とか八丈になっていて、片方が更紗羽二重なんかになっている。両方使えるという二重衿を男がやっていた。
    大正時代は職人の腕の良いのがまだ沢山のこってました。紺屋にしてもその通り、刺繍屋にしてもその通り。三越は職人の中の職人という様な素晴しい腕でなければ務まらない。職方になれなかったのです。今の八重洲口通りが昔は北槇町で、そこには一流の職人たちが集っていた。「京忠」と云って江戸褄専門の染物屋がありました。「伊勢仁」と云って印物を専門に染める染物屋がありました。それから「鳥光」と云って刺繍のものすごい左甚五郎腕の刺繍屋もいた。これは皆三越出入りの職人なのです。こうした職人をかかえて三越は最高のものを作っていたわけなのです。 当時丸帯に20円の正札をつけておいて、2ヶ月も3ヶ月も売れないから、0をひとつ付け加えて200円に直したら、その日の内に売れたという語がある。これは実際本当か嘘かわかりませんが、その位ぜいたくな物が三越では売れたということなのです。 関東大震災(大正12 年)の時、私は21 で丁雅奉公を卒業したのですが、それから10 年位は職人をしなければ和裁の道の達人にはなれない。
    京都、大阪、神戸と仕事がみんな違う。それであちらに一年、こちらに2年と旅から旅の、食ったり食わなかったりして、人の仕事を盗んで東京へ帰ってくる。漸く世帯を持って和裁屋を始められたわけです。
    その当時のきものは、今の人には想像もつかないと思います。お花見の時だけ素袷といって今の現在のきものです。後は桜の花が咲く時でもきものは全部2枚着に決っていた。男物の下着は通しだけれど、女物は胴抜きの下着と云ってとても凝った物で揃えたのです。ですから同じきものでも、今はせいぜい着たところで、きものと長襦袢と帯でしょう。昔は2枚着です。それにパンツをはかず皆お腰です。湯もじと腰巻きと。
    昭和 7 年 12 月の白木屋百貨店の大火で、女店員に大勢の犠牲車が出ました。女店員は和服で前が拡がってしまう。救命の綱を持っていた手で隠すから支え切れなくて、頭が重いから逆さになってサーツと下に落ちて、皆ザクロみたいになってしまったのです。この時からズロースとかパンツをはくようになったと云われます。
    レースの袖といいますのも、昔の袖で、電車などの吊革につかまると、脇の毛が見えるからそれを隠すために出来たのだと云われています。

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