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着物の流れ

  • 下着の表衣化-小袖の成立

    2017.03.6

    さて、室町時代の中期になりますと、御存知の通り大乱が起ります。京の町の今で云えば山名町に山名宗全が本陣をかまえ、東に細川勝元が陣をかまえて争いを起したわけです。市街戦ですから、京都の町は火が消えたようにさびれてしまう。これが応仁の乱(1467年)です。
    毎日毎日戦争をするために、神社仏閣、家屋敷ことごとく灰にしてしまったのです。こうなると食糧事情が悪くなるのは当り前で、天皇からお手当てを貰って暮していた公家は三度の御飯が食べられなくなる。皆、堺やその他食糧事情の良い所へ疎開するはめになるわけです。
    京都のお土産で一番多いのが漬物。色々あるでしょう。これはこの大乱のため 10 年問も戦争したために、貯蔵の利く、持ち歩きの出来る便利な食べ物として「おこうこ」が発展したのだとも云われている。それが連綿と続いているわけですね。
    10年間も続くこの大乱のおかげで、天皇からお手当てが貰えなくなったお公家さん達は、カヤをこわして着物にして着たという位、もうどん底の生活になってしまった。そうしますと、一番下にシャツのかわりに着ていた白の小袖が上衣になってくる。戦争はいつも同じで、この前の大戦の時もそう。一番上の良いものから食糧になってゆく。上から順番に脱いでゆけば最後に下着が残る。その残った下着の小袖が表衣化してくるわけです。
    こうして戦さ戦さでお公家さんの力、天皇の力もどんどん無くなって、武家の時代になります。天皇や公家は財力が無いから、昔のままの衣裳生活は推持出来なくなります。裳や袴をつけなくても公の場で通用するようになる。こうして小袖の時代が始まります。
    桃山時代に作られた衣服は大変豪華で、徳川時代以上のものが多い。刺繍はしてある、摺箔もこの時代から発達している、箔と刺繍と金銀サンゴまで使った豪華絢燗な衣裳が出来たのが桃山時代です。そして関ヶ原の合戦があって徳川時代に入るわけです。 小袖というのは初めは文字通り、袖口の小さい衣服で、礼服の大袖に対しての言葉でしたが、それが表衣化して来たのは先にも云った通り。十二単が式服化されると同時に、武家の力が大変強くなって、小袖が次第に晴着、公の場でも用いられるようになるわけです。これに打掛や腰巻をつけた立派な形式が出来上るのが武家の時代です。
    繍箔、摺箔、絞りの技術に続いて、江戸時代になると染色が大いに発展します。皆さん御存知の友禅染。染色に一大革命をもたらした技法が出来る。
    さて、室町時代から桃山時代を過ぎて江戸時代になりますと、身巾が狭くなります。それ迄は身巾は非常に広くて、つい丈です。女性は片膝を立てて座る、今から考えれば様の悪い格好をしていたわけですから、反対に身巾が広くなければならなかったとも云えます。それが徳川も元禄時代になると、身巾がつまってお引きずりになって、抜き衣紋をするようになる。女は内股で歩くようになります。お花を活ける、お茶を点てるという時には正座して、身巾が狭いため行儀良くしないとみっともないから女らしくなる。女らしくなったと同時にきものの良さというものが出て来たわけです。
    徳川時代が過ぎまして、大政奉還によって明治大帝が政治をとられるようになると、世の中が変って来ます。何が変ったかというと舶来というものが入って来る。それ迄はきものを縫うことを裁縫と云いました。ところが外国からミシンが入って来て洋服を縫うようになる。洋裁と和裁に裁縫が分かれるわけです。昔は裁縫といえば和裁に決っていたのが、今、裁縫と云うだけでは洋裁か和裁かわからない。それにきものの時には衣更えといって、季節季節で折目正しい節があったのが、洋装になって無くなってしまった。今ある衣更えは、制服を着ている学生さんか役人だけでしよう。

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