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着物の流れ

  • きものの成立

    2017.03.6

    奈良の都が出来まして85年の歴史が過ぎると、都は京都へ移ります。桓武天皇の時代、延暦13年(794)11月に奈良から京都へ都を移された。
    それから話が飛びまして、丸100年、1紀元経った894年に、御年わずか25才の宇多天皇が、菅原道真をお召しになって、「御苦労であるが、中国大陸へ行って、今まで聖徳太子以後、諸々の文化・学門が色々入っているけれど、お前は人間が聡明だから、中国からまだ来ていないものを祝察して、良いものは全部、目と頭に入れて来て貰いたい」と命令されたのですね。
    都が京都に移ってからも、この100年の間にも、遣唐使が派遣され、中国の文化や、仏教僧なども日本に来ていた。それにならって、宇多天皇も遣唐使を出そうとなされたわけでしょう。ところが道真は、「お言葉を返すようでありますが、今、日本は危急存亡の秋(とき)で、財政が苦しゅうございます。もし行くなら若者を30人から50人引きつれて、船も新しく造り、それも2隻か 3 隻で行かねばなりません。航海術も未熟ですから、季節風に流されて行けば全員滅亡するかも知れない。今迄そんな例も沢山あるのですから。今はそんな場合ではありません。聖徳太子以来、今まで学問、仏教など沢山入っていますから、それを日本的にかみくだいても遅くはないでしょう」とお答えになる。お若い宇多天皇も「お前の云っている事にも一理がある。それではその様にしよう」と云われて遣唐使を中止なさった。 先見の明があったかどうか。その当時中国は戦乱の巷になっていたのですね。菅原道真が宇多天皇のご命令通り中国へ渡っていたら、どうなっていたかわからない。先見の明があったのか間が良かったのか行かなかった。その時に、日本のきものが出来たのです。
    朝服を基にした種々の衣服が奈良時代から平安の時代までずっと受け継がれて来ていた。この元は胡服の二部式でありますけれども、それを日本的に改良したのがこの時のことだったわけです。菅原道真は学問の神様でありますが、私に云わせればきものの神様です。中国へ渡らず、今迄渡来したものを、日本流にかみくだいて、日本のものにした。今日私が日本のきものの元だと考える十二単が、初めて平安時代の末期、藤原時代に出来上ったわけです。
    男には衣冠束帯という素晴しいものがある。女には十二単がある。純日本の服装の黎明期の衣裳です。今の小袖につながるものです。
    この時代は、貴族文化の時代と云いまして、男が女のように歯を鉄漿で染めて、おはぐろにし、黒の帽子をつけて、化粧して、歌を詠んだり月を見たりして栄耀栄華を極めた時代です。その貴族文化の結晶が十二単であり衣冠束帯の衣裳なわけです。
    こういう大きなきもの、五枚襲(がさね)の五衣のきもので、紫宸殿の御所の中へ、貢納物を持った外国の賓客が来た時なんかに、公家の娘とか奥さんがお相手をする。舞いを舞ったり、酒肴でおもてなしする時のユニフォーム、それが十二単なんですね。
    通常は十二単の内、唐衣と裳を取って、上に小袿を着る。
    鎌倉時代も平安時代と余り変化がなく、十二単が続いて着られます。

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